In2010 Chopin Year 2010年は生誕200年のショパンイヤー

"ピアノの詩人"ショパンについてお勉強!

フレデリック・フランソワ・ショパン

〈1810(?)~1849 ポーランド・ワルシャワ生まれ〉は、言わずと知れた前期ロマン派の大作曲家。そんな彼の生涯を一気に紐解きます!

優等生のワルシャワ時代

気弱で内向的な少年のショパンは、ジブニーとエルスナーという2人の良き師に恵まれ早々とその才能を発揮しました。
7歳の頃には作曲を始めていたと言われ、ワルシャワ音楽院は首席で卒業します。
在学中の1828年にはベルリンでメンデルスゾーンと対面。翌年にはワルシャワでパガニーニの演奏を聴いて感銘を受けています。

コンスタンツィアへの初恋~旅立ち

1829年、ショパンは友人への手紙でコンスタンツィア・グラドコフスカへの恋を打ち明けています。彼女は同じ学院で学ぶソプラノ歌手で取り巻きも多かったようです。
ショパンの2つの協奏曲は彼女への叶わぬ恋心と同時進行で作曲されたとも言えます。
ショパンは1830年3月、ワルシャワ国立劇場で初めての演奏会を開きました。この演奏会でヘ短調のピアノ協奏曲を演奏。10月には新作のホ短調の協奏曲を初演します。

好評を博したこの演奏会には、コンスタンティアもソプラノとして参加しています。 そしてその年の11月、ショパンは友人達に見送られ、故国を発ちウィーンに向かいました。

ワルシャワ革命

しかしウィーンに着いた1週間後に、ワルシャワでロシアに対する蜂起が起こったことを知ります。反ポーランドの風潮が強かったウィーンを離れドイツに向かうショパンでしたが、1831年9月にワルシャワが陥落したことを知ります。
この知らせにショパンは驚き、憤慨します。さらに故郷の家族や友人たちと連絡が取れなくなり、ショパンは絶望と孤独の内に陥りました。
この時期に書かれたショパンの作品の中に、ピアノを攻撃するかのような激しい曲が幾つかあります。俗に言う「革命のエチュード」、前奏曲ニ短調(作品28ー24)、ロ短調のスケルツォなどです。

パリ時代のはじまり

1831年9月、ショパンは残りの人生すべてを過ごすこととなるパリに到着します。パリもまた市民革命後の混沌とした時代でした。
そうした気風の中、パリには多くの芸術家が集まります。文学者ユゴー、バルザック、ラマルティーヌ、ゴーチエ、ミュッセ、サンド、シャトー・ブリヤン、詩人バイロン、画家ドラクロワ、音楽家では スト、ロッシーニ、ベルリオーズ、マイヤベーアなどがいました。
こういった最高の芸術家の中にショパンは仲間入りをし、1832年に開かれたパリでの初演奏会も大成功を収めます。

マリアとの恋~破局

1835年の夏、ボヘミアで両親との再会を果たしたショパンは、帰途のドレスデンで知り合いのヴォンジスキ伯爵一家と会います。その伯爵令嬢であるマリアにショパンは恋をします。
数日の滞在後、ショパンは別れ際にマリアへ変イ長調のワルツを贈りました。翌年の夏にはマリアにプロポーズし婚約までしますが、結局マリアの両親の反対にあい1837年に破談となります。
失恋に傷ついたショパンはこの頃、変ロ短調のスケルツォや、後にピアノ・ソナタ第2番の第3楽章になる葬送行進曲を作曲します。

ジョルジュ・サンドとの日々


1836年の秋、マリアとの婚約が破談になる前の時期に、リストらとの夜会でジョルジュ・サンドと出会います。サンドは葉巻を吸い、外套と身にまといズボンをはくという、かなり風変わりな人物でした。ショパンは「本当にあれが女か?」と言ったといいます。それでもこの夜会以降、ショパンとサンドは親交を重ねます。
ジョルジュ・サンドとの良好な関係の中で生まれた傑作には「英雄ポロネーズ」「ピアノ・ソナタ第2番」「24の前奏曲集」等、多数あります。
二人はパリでの生活のほか、夏をサンド所有の城があるノアンで主に過ごしました。1843年にはドラクロワと親しくなり、彼との交流はショパンの作曲にも大きな影響を与えました。

優等生のワルシャワ時代

ショパンとサンドの最初の衝突は1845年の夏。
これ以降サンドとショパンの亀裂は大きくなり1846年には、二人の中はもはや修復不可能なものとなります。
しかしそれでもショパンはサンドのことを忘れることはできませんでした。
ショパンは死ぬまでサンドの髪の束を自分の日記にはさんでいたといいます。
サンドと別れたショパンは気力、体力共に衰弱し始めます。
そんな辛い日々の1846年でしたが、ショパンは幻想ポロネーズ、舟歌という傑作を生み出しています。

早すぎる死

病に侵されたショパンの晩年はあまり恵まれたものであったとはいえません。また、この時期は作曲もほとんどされていないのです。
1848年2月、ショパンはパリで演奏会を開きます。
これがパリでの最後の演奏会になりました。
その後弟子の勧めでイギリス、スコットランドを訪れ演奏会を行います。ショパンはスコットランドをひどく気に入っていたようです。
しかし病気は悪化の一途を辿り1849年10月17日、姉のルイーズや友人達に看取られながら息を引き取りました。享年39歳。
葬儀ではモーツァルトのレクイエム、ショパンの前奏曲作品28の内、ホ短調とロ短調の2曲などが演奏されました。ショパンの葬儀にジョルジュ・サンドの姿はありませんでした。
遺体はペール・ラシェーズに葬られたが、心臓はワルシャワに持ちかえられ、聖十字架教会に置かれました。